湖沼へ負荷される主な陸上有機物は落葉起源であり、炭素・エネルギー源として湖沼の腐食連鎖を駆動することで高次生産を支えると考えられて来た。しかし、落葉には、有機態炭素含量に比べれば遥かに少ないものの、リンなど湖沼一次生産を制限する栄養塩も含まれている。もし、浸漬した落葉からリンが容易に溶出するのであれば、落葉起源有機物は藻類生産を促し生食連鎖も駆動することになる。そこで、落葉に含まれる有機態炭素(C)、窒素(N)、リン(P)の可給態化学量とその比(C:N:P比)や二次生産に対する腐食―生食連鎖駆動量の樹種による違いを室内・野外実験と山地湖沼調査から調べ、湖沼生態系への栄養補償機能を介した森林植生の影響を明らかにする。

個々の生態系は独立に成立しているのではなく、異地性有機物のフロー、すなわち栄養補償(Trophic subsidy)を介して関連している。しかし、その具体的な機能は必ずしも明らかではない。例えば、森林から流入する落葉などの異地性有機物は、湖沼の高次生産を支える炭素・エネルギー源と考えられてきた。植物由来枯死有機物の主体は炭素であり、それに比べて窒素やリンなどの栄養元素含量が極めて乏しいためである。しかし、落葉など植物起源有機物を炭素・エネルギー源としてのみ強調することは栄養補償をミスコンセプトすることになりかねない。

生態化学量論は、生物と環境及び生物間の相互作用における多元素の量的関係と機能を調べる理論である。これによれば、受容生態系に重要なのは、異地性有機物に含まれるC、N、P含量でなく、それらの可給量である。いくらC含量が高くても、難分解性で非可給態なら、受容生態系の炭素・エネルギー源とならない。一方、異地性有機物のP含量が生物要求量比で炭素に比べて10倍少なくても、溶出・回帰速度が20倍高ければ、異地性有機物は受容生態系の一次(植物)生産を促す栄養源になる。異地性有機物の栄養補償機能を考えるには、生態化学量論の視点が不可欠である。

生物群集は生食連鎖(Grazing chain)と腐食連鎖(Detritus chain)で構成されている。これらは二次以上の栄養段階で統合され、高次生産を支える。例えば、湖沼の二次生産者である動物プランクトンは、植物プランクトンだけでなく、腐食連鎖上の細菌や細菌食原生生物も餌としている。したがって、その生産は生食連鎖と腐食連鎖の双方に依存し、一方で魚類等の餌となることで高次生産を支えている。異地性有機物は炭素・エネルギ−源となって腐食連鎖を駆動するが、それに含まれる栄養塩は生食連鎖も駆動する。よって、異地性有機物の受容生態系への影響評価には、腐食と生食の両連鎖を考慮すべきであり、その貢献割合に応じて栄養補償の機能は変わることになる。

日本には標高500m以上の山地湖沼が多く、多くは人家のない森林に覆われた集水域にある。それら湖沼では、森林からの異地性有機物が流入するため、一次生産よりも群集呼吸が過多となる純従属栄養生態系であると推察される。しかし、申請者らの調査では、光合成が卓越する純独立栄養生態系の山地湖沼も頻繁にみられる1)。それら湖沼でのリン・窒素の栄養塩起源は何だろうか?当初、窒素と同様にリンについても大気降下物由来と考えられたが2)。しかし、大気降下物中のリン濃度は極めて低いため、山地湖沼のリン負荷源は大気降下物によるとは考え難い。

落葉起源有機物を添加しても、光が十分になければ動物プランクトンは増加しなかった。

近年、樹木の葉についてC、N含量だけでなく水圏生態系でしばしば律速となるP含量についても知見が蓄積されており、生葉のN:P比は10〜40(モル比)と藻類と変わらないが、C:P比は200〜2500と、藻類に比べて高く、樹種やその栄養状態により大きく異なっている3)。また、多くの樹種は落葉前に栄養を回収するため、枯葉のC:N, C:P比はこれより高い。ただし、Nの場合はリグニンなどに取り込まれると分解されにくくなるため、枯葉のC:N比は低くなる場合もある。しかしながら、これら報告は生葉の元素含量や落葉の地表での減耗に焦点をあてたもので4)、落葉が浸漬した(湖水に浸した)ときの栄養塩溶出・回帰量の知見は殆どない。葉が含有するリンの多くは水溶性の無機態リン酸であるため細菌活性を経なくても水に溶出し易い。樹種によって、落葉がリン源として機能している可能性は十分にあり得るだろう。